森下


笠井叡とフランス人ダンサーエマニュエルのデュオを見てきた。
踊りが対話になりからだを相手に与え相手を受け取る。ふたりの交流が続いていくのを見ながらふたりのなかにふたり以上の複数がいるように見えてくる。笠井叡笠井叡のからだなんだけど笠井叡のからだを借りてしらないなにかが踊っているような、エマニュエルはエマニュエルのからだなんだけどエマニュエルのからだを借りてしらないなにかが踊っているような。気づけば突然交流は途絶えて笠井叡もエマニュエルもいなくなり、ただ圧倒的な踊りだけがある。そして音楽が終わるとふたりのからだはまるで夫婦みたいに並んで横たわっている。

笠井叡はいつもそうだ。
集団で踊るときもソロで踊るときもはじまりには交流や物語がある。でも最後にはただ圧倒的な踊りだけがある。
考えることを無にし、雑念や不安を吹き飛ばす完璧な瞬間がある。
たとえばベケットの「しあわせな日々」の最後の場面がそうだし、パゾリーニの「テオレマ」のラウラが祈る場面がそう。もちろん日常にだってそういう瞬間はあって、家族や恋人や大切なひととの関係のなかだったり、ある風景に出会ったときだったり、なにかの思い出がふとよみがえってきたときだったり。完璧な瞬間があったからといって、それは瞬間だからすぐに終わってしまって、終わってしまったらまた考えはじめて雑念や不安にまみれていくのだけど、そして数少ない完璧な瞬間をはさみながらまた考えはじめて雑念や不安にまみれていくことの繰り返しは不毛にも思えるのだけど、それでも一瞬である現在を「完璧な瞬間」と感じることができるのはすばらしいことで、笠井叡の踊りにはそれがあるんだ。

ということを帰りの電車からいままでずっと考えていた。
デモンストレーションのあとに数人で笠井叡とエマニュエルを囲んで感想を言い合う場があって、あこがれの笠井叡をまえにこういうことを直接伝えたかったのだけど、感じたことをまったく整理できず結局ひとことも言葉を発さずに終わってしまった。残念だったけどいいものみたなあ。